昭和44年07月09日 朝の御理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸替えをするに、八、九分かえて、退屈して止めれば、掃除は出来ぬ。それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中で止めれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
まぁここん所はいつも色々に頂きます御理解ですね。今日は私はこの二十八節の中から、「井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで」という事は大体どう言う様な事だろうかと。信心を続ける。一生懸命に親の代子の代孫の代と言う様に、信心は続いておると退屈ところがどんどん熱心に信心していくと。途中で止める様な事はない。それでもやはり病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまでのおかげを頂いていないと。ここのところがですね、どう言う様な事になっておるんだろうかと思うんですね。
昨日福岡の高橋さんのところお店が休みでしたから、高橋さんとそれからあのう、お店の方達が次々とお参りをしてきております。その中に中村さんという職人さんですが「弟が修学旅行のお土産に、私が少し変わっておりますから、変わったものでなからなければいけまいというて、こういうお土産を買うて来てくれましたから、これは先生にお供えさせてもらいます」というてから、ここに出すんです。組立式になっておる。それはなんとそのう提灯なんです。
こんな小さな提灯ですけれども、前に「御用」と書いてある。いわゆる昔取手の役人が使った、あの御用提灯をそのままにもう寸分違わんようにですね、その寸分というか形だけは違わんように、もう小さい所に至るまで、もうその実物と同じように作ってある小さいいわゆる飾り提灯なんです。いわゆる御用と書いてある。私それをこう組み立ててここでこう出される時にですね、何んじゃろ神様が御用御用というて、私にこう私をとっちめに来なさったのじゃなかろうかと、言った様な実感がしたのですけれどもね。
こちらが日ごろ信心が出来ておらんもんですから、もうお前はもう御用にするぞと。言って下さる様なこれが一番の実感でしたけれども。段々まぁ今御用になってしまった出来ませんから、それはお粗末ご無礼もございましょうけれどもお許しを頂いて、本当の意味合いにおいての、御用に使うて頂かなければならない、おんように使うてもらわなければならないね。という実感を強くしたのでございます。私用が御用になるとおかげになると仰る。四用というのは一、二、三、四の四ですね。
五はやっぱし一、二、三、四、数字の五ですね。ですからもう一つ、もう一つ深いそこんところが分からせて頂いたら、おかげ頂くんですすけれども、いかにも御用をさせてもらいます、御用をさせてもらいよります、もう家で一生懸命御用をしておりますと、御用という言葉を使うけれども、よくよく煎じて詰めてみるとそれが四用。一つ足らない用なん。それをまた漢字に変えますと、私用というのは私の用という事になるね。甘木の平田さんが言われるように、神、公、私と言われるのはそれなんですね。
もう神様第一主義という、信心の信の字を先に取らずに、その公の次の私的な用。いかにもなるほど商売、例えばお百姓、様々な御用がございますけれども、それを一辺になべて御用と言うてしまうが。なら御用の精神がどのくらいにあるかというと、やはり自分の店が繁盛するように、自分の作っておる田畑がよく出来るようにと、いうことだけにない。いかにも口では御用と言うておるけれども、御用ではない四用では、それでは一つ足りない用だね。
そこでその一つ足りないところをですね、分からせてもろうて本当の意味においての御用にならなければならない。そこでここの二十八節に出ております、七分目八分目で止めれば勿論それはいつまで経っても、井戸は清水になりませんでしょうけれども、もう本当に長年かかって、井戸替えが出来たようにあっても、やはり清水的なおかげになっていないと。途中で止めてはいないけれど、やはり病気災難は続いておると。そこでいよいよもう一つのところを分からせてもらわなければならない。
これはまだ足りん、これはまだ私の信心が足りんのだということですけれども、どこに足りんのだという事の焦点を置くかとね。一心でまめで繁盛するよう元気な心で信心せよと仰る、もう一つのところを元気な心で一心に、分からせて頂こうとする信心がね、ここに求められるわけです。そこでこの次の前のですね、27節が出て来る訳ですね。「昔からあの人は正直物じゃ、神仏のような人じゃと言うても者でも、段々不幸な事が重なって、世間ではどう言う様なものであろうかと言う様な事があろうが」と。
段々信心させて頂いておるという事にしてもいいですよこれは。信心はしておってもどうして次々と災難難儀が続くだろうかと。次には又ちょっと意味が違うね。「何ほど人に悪いことをせぬ正直者でも人が良いのと、神に信心しておかげを受けるのは別物ぞ」と。ここんところは又ちょっと意味が違うね。金光様の信心だけの事じゃないですけれども、世間でもそんな事が沢山あります。人格的にいうても心、いわゆる精神状態があんまりよくない。我情我欲が強い。根性が悪い。
そういう人でも神に信心しておかげを受けるのは別物と。だからそのそう言う様なおかげだけに甘んじておる。ただ神様の信心はここでいうならば、合楽にお参りをしておるということだけでおかげを受けておる。人間は一つも変わっていない。そこで私共がここで思う事はですね、いわゆる正直者でありここには神仏のようなと言うておられるが、そのうその上に私共が神仏を目指す。正直者を目指す。正しく直くと書いてある。いわゆる御道の信心は生神を目指すと。
道だと信心だという風に言われておりますようにですね、いわゆるこの神仏を目指させてもらい、正直者を目指させてもらう、その上に信心しておるというのである。そこでいうならそれがいわば鬼に金棒的に見えるが、それだけでも足らん。そこの一つの足らないところが今私が申します、それそれが確かにいわゆる和賀心を目指していわゆる、生神の境地を目指して信心の稽古をしておる。正直者を目指していわば信心の稽古をしておる。いわゆる信心をしておる。信心して一生懸命の信心の修行もしておる。
そして朝参りお参りさせてもろうて信心に励んでおる。それだけでも足りない。28節の最後の所にね、根の切れるまで一心にまめで繁盛するよう、元気な心で信心せよという、まめで一心に元気な心で信心するのは、もうひとつの足りない所なのだ。そこを目指さなければいけない。恐らく私共がですまぁいうならどんなにばだぐろうてもね、一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心させて頂いても、やはり災難もやっぱありましょうしね、病気災難もあろう。
そう完璧と思われる程しに出来ると思われませんけれども、やかりそこそこんところが目指しであり、目標としてそこんところの信心を続けていかなければならない。私が昨日中前さんが、御用提灯のお供えをここにさせて頂いておった時にです、私も本当にお役に立ちたい、お役に立ちたい立ちたいという念願に燃えておる訳ですね。本当に人が助かることさえ出来ればという念願に燃えておる訳です。本当にそうですね。その為の修行なら厭わんと思うけれども。
中々生身を持っておる事でございますし、または性根の中に不精心がありましてね、中々その思うような信心も出来ませんのですけれども、本気で思うておることだけは思うておる。お役に立ちたいお役に立ちたいね。もちろん神様のお喜び頂けれるような、お役に立ちたい。本当に人が助かる事の為ならば、本気で修行もさせて頂くという願いは、人の劣らぬほど持っておるけれども、中々そう言う様に簡単なものでは、ない事をいつも痛感しますがです。
昨日その御用提灯を見せて頂いて、大体私はどこに焦点をおいて御用をさせて頂いたらよいのだろうか、合楽のへの神様の使命、大坪総一郎に対する神の本当の願いというものは、どこにあるのだろうか。私がここに焦点を置いて御用をさせて頂く、というのはどこにあるのだろうか。合楽の信心が私は教団の中にも合楽の信心が認められて、そして合楽の信心が、本当に大手を振って堂々として、教団の上におかげを頂いていくという事をです、本当の意味においての、金光教の信心の御比礼と私は確信しておるです。
どうでも合楽の信心がね、合楽的いわば信心がです、本当に金光教的にならなければ。ということは合楽が入って初めて、教祖がおっしゃる金光教ねの信心と、まぁ言うと今の教団の生き方が間違っておると、言った様な風に頂いてもらったら、困りますけれどもですね、より教団が立派になっていかれるために、より難儀な氏子が助かっていかれる事の為にですね、やはりそのう一隅にでもね。合楽の信心が光を放たれなければいけないと、想うております。
それで私はここでなら命を懸けての、お取次ぎ成就信心生活運動に参加させてもろうて、御取次ぎの御用に専念させて頂く、まぁそれだけなんですけれどもです、それもなら神様の願い、私はそうですけれども神様の合楽に対する願いが私に対する、本当の願いというものにお答えしなければ、本当の御用にゃならんのです。一体神様は私に対して合楽に対してどのように、願いを懸けておいでであろうかと、私はここで想うたらね、御心眼に頂くのは、竹の輪とこう頂いた。竹輪(ちくわ)と。
輪の字はあのう車辺にりんという字あぁねりんという字。竹の輪とそしてそのう、また御心眼にあのう竹輪かまぼこというあの竹輪ですよね、ちくわの大きなちくわにですね、中の穴がもう小さい穴がすね、最近言われますことの中にですね、そのう大きくなったものは何かというと、何とかちいうとちくわの穴が大きくなったというのです。いわゆる身が薄くなったと言う訳ですね。見かけは大きいようにしておるけれども、中の穴が大きいから身が薄いと。
だから神様が私に求めておって下さっておるのは、そのう身の厚いちくわ。これはもう完璧というたら、かまぼこの様に中にゃ穴がないようなものでしょうけれども、中々それで出来る事じゃないでしょうけれどもね、いわゆる身厚い分厚い竹輪。こういう竹輪をそのう私に求めておられる、合楽の求めておられるそのだという事を、私し分からせて頂いた。漠然とお役に立ちたいお役に立ちたいね。御用に立ちたい。もう一つ足りないところはどこだろう。
御用が御用になっとりゃ本当におかげを頂く筈だろうけれども、御用が使用になっておる。そこでもう一つのところのこの例えば一、二、三、四の四にです、四用に四に五になる為にそのもう一つ、それに加えなければならんが、どこをどういう風に加えていったら、それが五になるか御用になるかと。ならその御用をそりゃそれぞれにありましょう。例えば皆さんの中にもそうでしょうが。神様が願うてござる御用というのは、それぞれに違うのです。総代なら総代としての御用ね、信徒会長なら信徒会長に対する御用。
青年会なら青年会に対するところの、それぞれの御用の分担と言った様なものがそれぞれに違うね。違うのになら神様が沢山の教会があります。金光教の教会は沢山ありますが、合楽の教会が受け持たなければならない、御用の分担面というのがあるはずなんだ。とりわけその中心である大坪総一郎に対するところの、神様の願いというか御用の分域というか、分担をどこに神様が置いといて下さるのであろうか。ただ御結界奉仕を一生懸命させて頂いて、人の難儀が助かる事のために一生懸命信心させて頂く。
これではあまりにも漠然としておるね。いわゆるそこに焦点がなからなければならない。ただ人が助かる事さえ出来れば、この方は結構であると言う様に、教祖様は仰っておられますけれども、私共もその願いを持つ。人が助かりさえすればどげな修行でも、いっちょさせて頂こうという願いは持っておる。ならその人が助かっていくという助け具合です。その助かり具合ですね。だから皆さんがそういう意味合いでの、ひとつのモデルケースにならなければならない。
合楽の人達は合楽の信奉者はこういうことを体得し、こういうことを分らせてもらうて、いうこういうおかげを受けておるという、ひとつの私は見本になって頂かなければならないと言う風に思うね。私がただ人が助かりさえすればよい、なら皆さんもただ助けちもらえさえすればよいというだけではなくてです、どういう風に助かっていくかという事。またどういう風に助けていくか教導していくかという事。これは合楽のいわば独壇場的というとなんですけれども、神様がこれは合楽に懸けられる願いだと。
それをなら私は昨日ご用提灯のお供えを頂いて、先ず感じた事はこれはこちらがもうとっちめられるけん、御用済みになるのじゃないだろうかと。御用御用というてそう感じたけれどもそれでは、やはり相済まん結果になりますからね、使いにくくもありましょうけれども、やっぱりあなたの御用にお使い回しを頂いて、あなたの難儀な氏子がどうでも一人でも二人でも出来るだけ多くの氏子が、取り次ぎ助けれられる事の願いをです懸けさせてもろうて、いよいよ御用に使うて頂かなければならないが。
そんなら神様は私にどんな御用を、まぁなさせようとなさっておるだろうかという事である。そこにですはっきりと、いわゆるそれぞれの御用の分担ね、合楽のどうでも一つ沢山なお金持ちばかりが集まっておって、まぁお金持ちばっかりになって、そのお金餅その沢山な浄財がです、大きな神様のお喜び頂けれるような御用に、どんどんそれが行使される使われるような、おかげを頂かなければならん。
それこそ世の中に様々な難儀な氏子がある。中にもとりわけ病気で苦しんでおる人達が沢山あるが、もう医者でも薬でもどうにもと言う様な病人が、合楽の教会で助からなければならない。と言う様にですそのやっぱ色々ある訳ですね教会には。あっちでは非常にその病気が治る助かる。あっちでは近代的なそのう、例えば例を申しますと玉水の大阪の湯川先生ところでは、沢山の商売人が集まる。
とにかく朝から晩までそれこそ、うちばかりの御大祭のように、もう一日中そのいわば商売人の人達が集まって、そのお取次ぎを願って商売繁盛のおかげを頂いておる。だから大阪あたりでは金光様といえば、商売の神様だとさえ言われるくらい。四国あたりの信心はいわゆる病気が治る。とりわけそのう金光様ちゃお産の神様じゃろうかと、知らんもんが言うくらいに、金光様に参りさえすりゃ安産のおかげは頂けれると、そのう確信しておる人程しに、そういう意味合いにおいての御比礼が輝く。
なら合楽にはどう言う様な、いわばその御比礼が出らなけれならんかと。これだけは大坪総一郎の取次ぎによらなければと、言った様なものがどこにあるかと。言う事をです私昨日そのういよいよ、その御用と言う事を煎じ詰めて参りましてです、私は大体その漠然とこうして御用をさせてもらっているが、神様がどこに願いを懸けておって下さるだろうかということである。私はねこれは合楽の一つの特異性とこういう思います事は、このご理解が非常に深くて広い事ね。
今までかつて聞いた事のない程しに、その表現の素晴らしさというかね、教祖の御教えがこんなにも深い、こんなにも広いもんであると言うな事を、私自身が日々頂いて、もうビックリするくらいであります。ですからそのう合楽ではそういういご理解を本当にお互いが頂いて、お互いのものにさせてもろうて、夕べは分からない気がつかない知ってはいないけれどもですね、合楽ではそれがなされておると言った様なおかげに、ならなければならないと思うのですがね。
例えて今日はあのうちくわの御理解の中から思いますのはね、ちくわというのはまぁいうならば、あのう向こう先が見えるというでしょう。穴があいてある。いわば蓮根食うてもらうと。こりゃまぁ私が思いますのですけれどもね、もう一生懸命に信心をするね。だからねそれは本当じゃないですけれどもね、一生懸命の信心に対してです、神様がおかげを下さるとするならね、そりゃ神様がほんなこつじゃないばってん、あれがあれしこ一生懸命なるけんで、おかげをやらじゃことてというて下さるおかげですから。
神様がいわば竹輪を食べて下さる訳です。蓮根食うておかげ下さる訳なんです。そうでしょうね。そしておかげを頂くと、自分のして来たそれが本当だという風に思いこんでしまう。例えば先日からの壮年部会の時に、久留米の石井清司さんの例を話したんですけれどもね、悔やまないということはおかげを頂く、すごい秘訣だとこういうておる。だからおかげを頂く秘訣ではある。けれどもそこには石井清司なら、石井清司、石井清司一家が助かるだけでしょう。
だからおかげを頂く秘訣だけは覚えて、おかげだけを頂こうというのはこりゃもうほんなこっじゃない。けれどもこれだけでもその秘訣を覚えておるという事は、大した事なんだね。不平不足を言わんということはね、もうそれこそ徹底して人ならばもうそれこそ、そんなことは困ると、言った様な事でもそれを、喜びで受けていこうという態勢というものがですね、石井清司さんのもうものになっていっておるという感じですね。やっぱり。ですからやはりおかげを受けておる。
それかと言うとです、それこそ神様にしがみつくようにしてです、強引にさぁ水かかったり断食したり、ほぅりゃもう何時間でも何時間でも拝み倒してです、おかげを頂くという生き方もあるんです。そしておかげというものは一生懸命御祈念さえすりゃおかげを頂けれる。いわゆる御祈念力をもっておかげが頂けれると思い込んでおる人もある。これをいっちょ覚えたらもうおかげの秘訣を覚えても、もう自分はそれだけでもおかげを受けておる人もある。けれどもこれは決して軽くみるのではないのですよね。
皆さんが本気で一生懸命の御祈念力を身につけなければならない事も事実。これはおかげを頂く秘訣と言った様なものも自分の信心の筋金にです、それが入って来る様なおかげを頂かなければならない事は事実ね。ところがね合楽の場合はただそれでおかげを受けてくれれば神様も喜んで下さると言う事じゃないという事。だからそう言う様なのはですねいうならば、あのう神様が蓮根食うて下さってその事に徹底しておるからね。その事に一生懸命拝むから。もうそれに対しておかげを下さるのであるから、これはまぁ蓮根食うて下さるおかげなのだね。
いわゆる私が頂いた竹輪というものは、身の厚い蓮根食うて下さってからではない。当然神様も喜んで下さりね、氏子も喜び金光大神も喜んで下さると言った様なおかげ。ただおかげさえ頂ければ金光大神も喜んで下さる、神様も喜んで下さるという事ではないという事をですね、いよいよより素晴らしい教祖の御教えを深く広く分からせて貰ってですね、金光教の新名目というかね、親にかかり子にかかり、親の事は子が願い子のことは親が願いね、いわゆる親と子が助かり合うていくという事。
そういう事を分からせて頂く、それを分からせる御用が合楽の信心に懸けられておるのであり、私にかけられておる願いであるという風に私は感じた。だから皆さんにどうでもだから合楽の御理解というものをですね、御理解力を皆さん自身も身に受けなければならんのですけれども、実際御理解を頂いてみてですどの程度に分かったか、他とえば共励会なんかの時に聞いてみると、実際は本当に分かっていないという事です。それ本気で勉強しよう本当に分かろうと、もう頭うごと体ごと。
そのご理解を自分のものにしようとする、私は意欲に欠けておるからであると私は思うんです。御理解第27節にあの人は神仏のような人じゃと。又は神に信心しておかげを受けるのは別物と。けれどもそのう神仏のような信心をね、病人や代々難儀が続くと言う事やらね災難が続くと言う事。それはその根の切れるまで、一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよと、もう一段ですもう一段元気な心で、繁盛するよう信心せよという事はです。もう一段合楽の場合はです、もう一段本当な事を分からせてもらい。
本当なものを身に付けてね。そこから本当のおかげが頂けれる。これは神様が蓮根を食うて下さって下さるおかげではなくて、本当の事が分かった事に対するおかげである。いわゆる身が厚いおかげであるね。それを本当だと言う事をです私は実証していかなければならない責任を、私を始め合楽にご縁を頂いておる方達は、感じてもらわなければならないという事でありますね。
拝みさえすればとか、ただ一言おかげを頂く秘訣、もう御用さえすれば助かると言った様なものもね、これはおかげを頂くやっぱ秘訣なんだね。もう悔やまんと絶対悔やまんと。もう悔やんだらおかげが逃げると言う事を信じておる。また悔やまないということがおかげを頂く秘訣とさえ、それを自分のものにしてしまえばお参りやら例えばせんでも、御用はせんでもおかげは受けておるね。それではです例えばあいよかけよにならなん。神も助かる氏子も助かると言う事にならないね。
天地金光大神を通して現われてござる天地金の神様というのは、どこまでもね氏子あっての神神あっての氏子と仰るように、もう氏子と神様がとがあいよかけよで何時の場合でも、親のことは子が願い子のことは親が願い合うていく、信心の雰囲気というもの。そういうものがです育って行かなければ、私は金光教の信心とは言えない。一生懸命御祈念力によっておかげを頂いた。沢山に商売の繁盛にお金を頂いた。だからそのお金がまた教会を通して神様の御用に使うて頂くお供えになった。
だから神も氏子も喜び合うているかというたら決してそうじゃないと言う事。どこが違うかと言うと、御祈念力でおかげを頂いておるというところが違う訳なんです。そうでしょうがね。そこへんをですね一般の人は一生懸命おかげを頂いて一生懸命御用させてもりゃわあ、神も喜び氏子も喜ぶと言う風に思うのです。そうじゃない。実は神様はレンコン食うて下さって一生懸命に拝むから、一生懸命に修行するからお参りをするから、おかげを下さっておるだけですから、神様の心にピタッと来とらんでしょうが。
神様はまだレンコン食うて下さっておるおかげ。すると本人は一生懸命商売繁盛のおかげを頂いて、一生懸命御用もさせてもらいよるから、神様も喜んで下さっておると思いこんでおるところにです、いつまで経っても病気災難が根の切れない、と言う様な事になって折る事をです、合楽では一つ打破していかなければならない。そうじゃないんだとね。本当は私共が神仏を目指すのだと。もっと広い深いそれこそ大海のような、そのう神の叡智というものをです自分の生活の上に頂いてね。
そういう意味においての信心生活が本当に出来てきて、出来てから神様がいうなら、おかげの受けものが出来たから、下さるというおかげでなからなければならんのに、ガムシャラに願ったからこれがおかげの秘訣というて、その神様の痛いところを握ったから、おかげを頂いておるというのであっては、ほんな事じゃない。その頂いたおかげによって、それをまた神様の喜んで頂くような御用に使うというてもです、根本一番始めのおかげの出所が違う。そうでしょうがね。
私はその辺のところをですね、間違えておるのではなかろうかと思うのです。いわゆる神仏のような人じゃと正直ものじゃと。と言われるような人でもですね、神に信心しておかげを受けるのは別物と仰っしゃるように、そこんところがはっきり分かってくるでしょう。人間が変わってこなくても受けものが出来ていなくても、ただガムシャラに一生懸命修行をする。神様を拝み倒すように拝むね。それこそ一生懸命もう信心は御用なりというて、御用ばっかり一生懸命する。
もうするから神様がそうじゃないけれども、あれだけ一生懸命になるからおかげを下さる。下さるとそれをまた神様の喜んで下さる事の為にというて使う。それであいよかけよと、神も喜んで下さる金光大神も喜んで下さるような、信心と思うておる。そうじゃないのだとね。本当の意味合いにおいての精進、本当の意味合いにおいての神仏を目指しての信心ね。そういう人がね神信心をしておかげを受ける、ひっとっつもガムシャラに下さい下さいと言うて願っていない。
ただ願って折る事は神仏になる事だけを願っておる。自分の心を和らぎ賀ぶ心になる事だけを願っておる。しかももう広い広い、深い深い大海のような神様の叡智に触れながらね、それを自分のものにしていく自分の信心にしていく。いいですかそうしてそこから、生まれて来るところのおかげですよ。皆さんそれだけじゃいかんです。そうしてそのおかげがね、また神も助かると言う事にですね。
いわゆる難儀な氏子のいよいよ取り次ぎ助けれられる事のために、そのおかげがまた暁鐘される時に始めて、神も賀び金光大神も賀び氏子もの喜びと言う事になる。そういう本当のところ本筋のところ。そこをねどうでも合楽では打ち立てていかなければ、だからあれだけ熱心に信心するのにというだけでは、合楽ではいけないと。なら合楽に対する神様の使命が違う。どうでも私共が本気で改まらせてもろうて、先日から山口の小笠原先生が見えてから言うておられますように。
また手紙にも書いておられますように、合楽に来ていよいよ思う事はです、始めの時もそれを言われておりました。帰って手紙が来ておった。今度来た時もそれを言うておられます事はです、合楽ではいよいよ神様が助かっておられる、お広前という実感をここ致ししますというておられるね。神様が蓮根食うて下さってからのおかげではなくてです、本当なおかげを下さろうとしておる。そこにお互いがなら分かる分からんは別として意欲しておられるわけですね。
合楽の人達は皆んな御理解を頂いて、少しづつそれが本な事が分かって来よる訳です。それに神様が心やすく、あの調子で信心を進めさえ行ってくれればという、神様のいわば助かりが楽の元にある。例えば子供がです親に本気で喜んでもらおうと、言う意欲を燃やしておるという事で親が安心するように、親もそこに助かっておる姿があるように、合楽の信奉者はです、私達皆がですね本当な事が分かって本当な事を、まぁ自分のものになってはいないにして、もそれを自分のものにしようと。
本気で本当の信心をさせて頂こうという願いがですね、神が助かってござるお広前と、言わしめる事になるのじゃないでしょうか。だから私共がそういう意味合いにおいての助かりを、私共が願って私共がそういう意味合いにおいての、助かりを頂いた時に神様もいよいよ助かって下さる。そこに神様の助かりがそのまま、私達の上にです現われて来るおかげ。そういうおかげ打ち立ててね、私はそういう信心を引っさげてね、いうならばあらゆる共励機関にでもです、又はその合楽の一歩でた外への働きかけに、なるところの信心というものがですね、推し進めていかなければならないんだと。なるほどあなたはおかげを受けておる。けれどもあんたのおかげはそれは、神様が喜んで下さってのおかげではないんだという理をです、本当に芯から説きあかせれる、私は御理解力を皆さんが身に付けなければいけない。なるほどあんたはおかげを頂いちゃる。御用もどんどん出来よる。けれどもいよいよ根本的なところはあんたが、一生懸命拝むけん頂いておるのであって、一生懸命御用をするけん頂いておるのであって、それはほんなもんじゃないんだと、神様が喜んでおかげを下さっておるのではないんだと、レンコン食うて下さってあんたの頂いてくださっておるおかげじゃから、私達がいう生き方の信心させてもろうてです、私達が頂いておるようなおかげであって、始めて神も喜んで下さってあるんだ、神様が助かって下さるお広前が、そこに出来るのだと言う事をです、もう本当にどのような角度からでも解けれるご理解力をまず、お互いがまず身に付けていかなければならないと言う事。そういういわば責任、そういう御用が私皆さんにあるということをです、昨日の御用提灯の中から頂いた。そして今朝頂くこの御理解28節ですね。どうしてですもうこれほど言うならば親子、孫というに代々続く様な信心をさせて頂いておるのに、井戸は清水ならんのだろうかと、災難が続いておるのであろうかとね、どうしてそういう根が切れんであろうかと、一心にまめで繁盛するよう元気な心で、信心せよと最後に結んでおられる。元気な心で信心させてもらうと言う事は、どこにならもうひとつ焦点を置いておかげを頂くかと言う事がね、私共は私用から本当の意味に於いての御用、御用ならどこのところに合楽の者は御用として行かねばならない、神様が願いとしておられるのは何処なのかと、言う事を把握してそこの線に添うて、私はいわば元気な心で一心に信心して行くと言う事だとこう思うのです。ですからおかげのいわば現れ方が違うんだとね、なるほど一応ね商売繁盛商売繁盛のおかげは頂いておっても、あんたのはね只御用するけん商売繁盛しよると。只一つの事を覚えておりけん、不足言うちゃもうおかげ頂かれんと言う、それを秘訣としてあんたが身に付けておるからおかげを受けておるだけであって、それは本当は神様が喜んで下さらん。神様の痛い所を握っているようなだけの信心、だからそれがですね神様も喜び下さる為の行使される信心。そう言う信心をです本気になって身に付けて行こうとする、願いに立たせて貰わなくちゃならんと思うのですね。
どうぞ。